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アジア環太平洋研究叢書 4『アジア太平洋戦争と収容所―重慶政権下の被収容者の証言と国際救済機関の記録から』(貴志俊彦著、国際書院)が刊行されました

2021.02.25

貴志俊彦『アジア太平洋戦争と収容所―重慶政権下の被収容者の証言と国際救済機関の記録から』 (アジア環太平洋研究叢書 4)http://kokusai-shoin.co.jp/308.html?fbclid=IwAR1pOA7msClilvzesJMite-mh0KtDMzn_9eXsmxhSK9GHKRPH7XR-J43GAs

国際書院、2021年2月26日刊行
定価 (本体3,500円 + 税)
ISBN978-4-87791-308-3 C3031 261頁
本文言語 日本語
http://kokusai-shoin.co.jp/308.html?fbclid=IwAR1pOA7msClilvzesJMite-mh0KtDMzn_9eXsmxhSK9GHKRPH7XR-J43GAs

𝗧𝗼𝘀𝗵𝗶𝗵𝗶𝗸𝗼 𝗞𝗶𝘀𝗵𝗶, 𝗔𝘀𝗶𝗮-𝗣𝗮𝗰𝗶𝗳𝗶𝗰 𝗪𝗮𝗿 𝗮𝗻𝗱 𝘁𝗵𝗲 𝗜𝗻𝘁𝗲𝗿𝗻𝗺𝗲𝗻𝘁 𝗖𝗮𝗺𝗽𝘀: 𝗙𝗿𝗼𝗺 𝘁𝗵𝗲 𝗧𝗲𝘀𝘁𝗶𝗺𝗼𝗻𝗶𝗲𝘀 𝗼𝗳 𝗣𝗢𝗪𝘀 𝗮𝗻𝗱 𝘁𝗵𝗲 𝗥𝗲𝗰𝗼𝗿𝗱𝘀 𝗼𝗳 𝗜𝗻𝘁𝗲𝗿𝗻𝗮𝘁𝗶𝗼𝗻𝗮𝗹 𝗥𝗲𝗹𝗶𝗲𝗳 𝗚𝗿𝗼𝘂𝗽𝘀 𝗶𝗻 𝘁𝗵𝗲 𝗖𝗵𝗼𝗻𝗴𝗾𝗶𝗻𝗴 𝗡𝗮𝘁𝗶𝗼𝗻𝗮𝗹𝗶𝘀𝘁 𝗚𝗼𝘃𝗲𝗿𝗻𝗺𝗲𝗻𝘁, Asia-Pacific Studies Series, Vol. 4, Tokyo: Kokusai Shoin, 26 𝗙𝗲𝗯𝗿𝘂𝗮𝗿𝘆, 2021.

内容紹介 
本書は、アジア太平洋戦争期(1941-1945)の中国奥地に設置された収容所問題をとりあげている。中華民国重慶国民政府(本書では重慶政権と呼ぶ)の統治区に設置されたミクロな空間・場の問題であるが、そこに交錯する人びとは、日本、朝鮮半島、台湾をはじめ、太平洋対岸のアメリカ合衆国、ユーラシア大陸の中央アジア、欧州と繋がっていた。それゆえ、登場する人物は、東アジア域内にとどまらず、国際的であり、またその背景も多様であった。この時期に設置・移設された収容所は、捕虜収容所、敵国人収容所、敵国籍宣教師のための集中営などに分かれていた。いずれもが、国際法とローカルな政策、すなわち「捕虜の待遇に関する条約(以下、1929 年のジュネーヴ条約)」と、重慶政権による「捕虜優待政策」に基づいて制度化されていた。ただ、それぞれの収容所の役割や環境は、明らかに違っていた。本書は、中国奥地の収容所が、この国際法とローカルな政策に基づきながら、実際にはいかに運用され、それを被収容者がどのように受け止めていたのか、またアジア太平洋戦争からいかなる影響を受けていたのかを読み解いていく。(「序論」から)

【目次】
  はじめに: 閉塞感が漂う時代に対峙して
  凡例
  *地図「重慶政権下の収容所分布図(1940年代前半)」
  *本書読み取り表 「各収容所に関する本書の論述箇所」
  序論 対象と視角/意義と方法/基礎資料
    コラム1 WPA(YMCA国際戦俘福利会)
    コラム2 ICRC(赤十字国際委員会)

第I部 戦時中国における日本人捕虜
  第1章 日中戦争前期における日本人捕虜収容所の概況(1937-1941)
    1 軍政部の収容所と試行錯誤の捕虜教育
         (1)第一捕虜収容所(宝鶏)の「覚醒」教育
         (2)第二捕虜収容所(常徳)の感化教育の挫折
         (3)第二捕虜収容所重慶分所に成立した反戦同盟準備会
         (4)第三捕虜収容所(桂林)の「更生学園」への反発
         (5)情報収集の場であった空軍捕虜収容所(成都)
    2 「在華日本人民反戦革命同盟」の成立から解散へ
  第2章 アジア太平洋戦争勃発による日本人捕虜の境遇の変化(1941-1944)
    1 第二捕虜収容所(鎮遠)内部の矛盾
         (1) 訓練班、研究班、新生班の成立
         (2) 前舎と後舎の対立
         (3) 所長の不正発覚
         (4) 鎮遠から重慶への移転
    2 軍政部捕虜集中営(重慶)をめぐる思惑
         (1) 軍政部のねらい
         (2) 抑留された捕虜、敵国人とは?

第II部 国際的な救済活動: YMCA国際戦俘福利会(WPA)と赤十字国際委員会(ICRC)
  第3章 中央アジアを超えたヨーロッパ系被収容者の証言(1937-1941)
    1 ベンツ、YMCAのWPA事業に参画
    2 1930年代末中国西北部で起こった逮捕劇
         (1) ドイツ系移民の事例
         (2) ポーランド人移民の事例
         (3) ロシア人移民の事例
    3 逮捕劇の背景にあったソ連の影響
  第4章 ベンツによるWPAの救済事業記録I(1943)
    1 初めての敵国人収容所訪問
         (1) 第一敵国人収容所(北碚)におけるドイツ人の内紛
         (2) 第三敵国人収容所(陽朔)に集められたドイツ人司祭
    2 次に戦争捕虜収容所へ
         (1) 空軍捕虜収容所における日本兵との遭遇
         (2) 宝鶏の収容所における和平村モデルの導入
         (3) 女性もいた洛陽の臨時捕虜収容所
    3 続いて宣教師たちの布教指定区へ
         (1) 河南省のドイツ人、イタリア人宣教師たち
         (2) 福音派の牧師とカトリックの司祭との共働
    4 疲労と病で倒れたベンツ
         (1) 老河口集中営に辿り着く
         (2) 体調不良のなか安康・漢中の集中営へ
         (3) 宝鶏の日本人捕虜への布教
         (4) 朝鮮人捕虜たちの気持ち
  第5章 ベンツによるWPAの救済事業記録II(1944)
    1 甘粛省の収容施設に集められたドイツ系コミュニティ
    2 重慶の軍政部捕虜集中営の改革
    3 第二捕虜収容所でも立ち上げられた聖書教室
    4 雲南と重慶のドイツ人たちを見て
  第6章 センによるICRC救済事業記録(1943-1945)
    1 初年度の活動報告書から(1943)
         (1) 第二捕虜収容所のずさんな管理体制 150
         (2) 軍政部捕虜集中営を捕虜施設の中核に
    2 2年目の活動報告書から(1944)
         (1) センのスパイ疑惑
         (2) 欠乏する医薬品
         (3) 健康被害なき第一捕虜収容所
         (4)拠点となった軍政部捕虜集中営
    3 センによる最後の報告書(1945)

第III部 アジア太平洋戦争後の捕虜たちの処遇
  第7章 「終戦」直前の捕虜たちの姿(1945)
    1 重慶にいた日本人捕虜の立場の変化
         (1) 疲労困憊する捕虜たち
         (2) 第二捕虜収容所にいる捕虜像
         (3) 軍政部捕虜集中営にいる捕虜像
    2 日本人捕虜も聞いた「日本降伏」のニュース
  第8章 「終戦」直後の状況の変化(1945-1947)
    1 追いつめられる日本人捕虜
         (1) 国民党中央宣伝部「対日文化工作委員会」の成立
         (2) 1945年夏の日本人捕虜
    2 国民党イデオロギーの強化
         (1) 悪化する第二捕虜収容所の待遇
         (2) 捕虜の再組織か?帰国か?
    3 解放されない人びと
    4 戦後に続く捕虜政策
    コラム3 UCR(米国援華聯合会)
    コラム4 FAUチャイナコンボイ(1941-1946)

  結論: 本書の成果と課題
    1 国際法に準拠する人道的措置の対象とは?
    2 収容されなかった人びとの存在
    3 「敵僑」=「捕虜」か?
    4 「異邦人」としてのベンツ、センの存在

  注
  あとがき
  付表
    表1 各省における敵国籍宣教師指定布教地点一覧表(1943年6月)
    表2 中国各省の敵国人・敵国籍宣教師たちの状況(ドイツ人、イタリア人)(1943年1月1日)
    表3 「敵国人」人名簿1~7
    人名簿1 戦時亡命者(甘粛省蘭州、1944年1月)
    人名簿2 新疆の外国人(1944年1月)
    人名簿3 第一敵国人収容所(四川省北碚、1943年2月)
    人名簿4 第三敵国人収容所(広西省陽朔、1943年3月)
    人名簿5 集中営1号のイタリア人宣教師(河南省内郷、1943年1月)
    人名簿6 集中営2号のドイツ人宣教師(河南省内郷、1944年1月)
    人名簿7 集中営のイタリア人宣教師(河南省淅川、1943年1月)
    表4 略年表(1937-1947)
  索引(人名、地名、事項名)/略語一覧 A-Z
  著者紹介