Interview
アジアの中心で目からウロコ
帯谷知可先生インタビュー
聞き手: 志田夏美 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科(ASAFAS)/日本学術振興会特別研究員
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ユーラシア大陸の真ん中、中国の西側からカスピ海の東側に広がる乾燥地帯に位置する中央アジアは古来オアシス都市における定住と遊牧生活が営まれ、早くからイスラーム文化を受容して東西交易で栄えた地域です。ロシア革命後にソ連傘下で社会主義化がすすめられ、ソ連解体後にカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国は主権国家として独立、民主化、市場経済化と、近年目まぐるしい変化を経験している地域でもあります。帯谷先生の専門はこの中央アジアの近現代史および地域研究。今回は、絨毯づくりから見るウズベク牧畜民の「伝統」と生活文化について研究をすすめるASAFAS博士課程院生の志田夏美さんが聞き手をつとめます。
{ Q1 }
なぜ中央アジア研究?
志田夏美(以下、志田): 帯谷先生は以前、あるインタビューで「『研究者も生活者であることを大切に』という先輩女性研究者の言葉を自分も大事にしたい」とおっしゃっていましたよね1。私も、とてもいいメッセージだと思いました。本日はこのメッセージを入り口として、地域研究者であり一人の生活者である先生の日常についてうかがいたいと思います。読者の方が地域研究者に対するイメージをふくらませるきっかけになればと思っています。
帯谷知可(以下、帯谷): その先輩研究者の言葉は私にとってとても印象に残るものだったのですけれど、もしかしたら私が理解しているよりも、もっと深い意味があったのかもしれないと最近思うことがあります。研究もするし生活も楽しむ、という意味だけの生活者ではなくて、研究も含めた生活にどういう哲学を持つかという問いだったかもしれないですね。その方からは本当にいろいろなことを教わったのですが、ご自分の経験に照らして、次世代の女性研究者である私たちにいつも配慮してくださったなと今でも感謝しています。
志田: 後ほど詳しく生活者としての日常についておうかがいしたいと思います。まず、先生が中央アジア研究の研究者になられたきっかけを教えていただけますか。
帯谷: ずっとさかのぼって思春期の頃、井上靖のシルクロードをテーマにした小説2が好きだったのです。その後、NHKのシルクロード特集3が制作され、敦煌や楼蘭が初めて映像で紹介されて、注目を集めたときにちょうど進路を選ぶ時期が重なりました。その頃の私の関心は茫漠とした、シルクロードの歴史のロマンに憧れるという程度のものでしかなかったのですが、その後、外国語大学でロシア語を学ぶことになりました。当時はまだソ連があり、いろいろ勉強していくと、ソ連の中にシルクロードの重要都市を含む中央アジアがあることに改めて気がついたのですね。
人がまだあまり手をつけていないことをやってみたいという思いもあって、ロシア革命の頃の中央アジアに関心を持ちました。ちょうどその頃、ロシア語の授業でロシア=ソ連文学の作家アンドレイ・プラトーノフ4の『粘土砂漠』を読み、ロシア革命期の中央アジアを舞台にしたその物語がいたく気に入りました。さらにNHKのシルクロード特集が話題になった頃、同じくNHKで「マルコポーロの冒険」5というアニメがあり、主題歌を小椋佳が歌ったのですね。小椋佳といえば私の青春時代の代名詞で、ずっと聴いていたミュージシャンです。ですので、三大噺的に言うと、井上靖、小椋佳、プラトーノフというつながりで、中央アジアに導かれた気がします。
ソ連の中央アジア地域の研究は、それまでソ連研究の枠組みでわずかながら行われていましたが、全く情報が少ない状況でした。私が中央アジアについて具体的に勉強を進めていこうと思った時期は、ソ連研究ではなく、東洋学、中東研究、イスラーム研究の分野でテュルク語6などの現地語資料を駆使する先生たちが、ソ連領中央アジアについてロシア語の資料をも使いながら日本で本格的に研究を始めようとされていた頃でした。具体的には山内昌之先生7と小松久男先生8ですが、実際に大学院で先生方の授業を受ける機会があり、何かこう、俄然元気が出て、この道を行こうと。そういう感じの始まりだったと思います。
帯谷知可准教授(右)と院生の志田夏美さん。2021年10月25日、帯谷研究室にて
{ Q2 }
女性研究者への道
志田: 帯谷先生の学生時代、女性で大学院に進学するのは珍しくありませんでしたか。
帯谷: 私の同期にはロシア語科から大学院に進んだ女性が何人もいました。進学先はいくつかに分かれましたが、それぞれ女性の先輩も一定数はいましたし、女性が大学院で学ぶことについて、私たちのときにはすでにそれほど抵抗がある雰囲気ではなかったです。外国語学部や、地域研究の分野では、比較的女性が多いですよね。
志田: 京大でもASAFASの学生は半分以上が女性9です。
日本では旧ソ連や中央アジアに行ったことがない人がほとんどですよね。当時、周りから、危なくないのか、など言われたりはしませんでしたか。
帯谷: それは折々言われましたし、今もそうかもしれません。ソ連解体という大混乱の後に、私がウズベキスタンに2年間行くことになったとき、周囲の研究者ではない人たちから、そこは今戦争しているところでは?とか、ユーゴスラビアの一部ですよね?とか、思いもかけない反応が返ってきたものです。
当時は日本の大学で中央アジアの言語を正規に教えているところもなかったですしね。トルコ語、ペルシャ語、ロシア語、一応3つぐらいをやっておくと、そこを入り口にして独学でも中央アジアの言語が勉強できる、だいたいみんなそんな形でやっていたと思います。
志田: 出産や子育てなどのライフイベントを経たこと、母親になったことで、研究の質が変化したところはありますか。
帯谷: 最近、女性解放運動やジェンダーなどに関連したテーマをやっていますけれども、特にそれは子どもを産んだからというわけではないように思っています。出産直後の時期は現地に行かずにできる研究を選択したということはありましたが、それが必ずしも研究の質を変化させたわけではないですね。ただ、子どもをもったことで何か違う世界が開けたなという実感はありますね。現地調査でも、子連れでいることで、受け止められ方が変わって先方のハードルが下がり、思わぬ場所に入れたり、思いのほか早く打ち解けられるというような経験をしました。
{ Q3 }
研究テーマの発見と選択
志田: 帯谷先生のお話を普段からうかがったり、研究課題にふれたりしていますと、その時々に重要なテーマを追いつつも、ご自身の中にある発見や驚きがきっかけになって研究を展開させていると思うのです。そういったきっかけは、どのように掴んでいるのでしょうか。
帯谷: 例えば最近取り組んでいるウズベキスタンのイスラーム・ヴェールの問題は、入り口としては、3年ぶりにウズベキスタンに訪れた際に、たまたま街で、それまで見たこともないくらいたくさんの女性がイスラーム・ファッションで目の前に現れ、それまでに見たこともなかったその光景にある種ショックを受けたことがきっかけでした。特にそこからヴェールやジェンダーの問題を考えることを意識したわけではなかったのですが、大きな変化が起きていると感じました。一方、その少し前から1920年代の歴史写真を集めていて、実際に写真家のご家族とも知り合い、ご自宅のアーカイヴを見せてもらったりしていたのですね。その中には、1920年代に現地の女性たちが分厚いヴェールで全身を覆っている写真がたくさんありました。プロパガンダ写真が多かったのですが、時代の息吹のようなものが感じられ、とても魅了されました。現在のヴェールと過去のヴェール、これを繋げようと思ったのです。
志田: 写真は何か目的をもって集めておられたのですか? また、現地の研究者の方で、映画などから探してみてもいいんじゃない?といった話があったともうかがいました。
帯谷: 映画や映像よりは写真が先ですね。何かと収集癖があるもので、歴史写真は以前からかなり収集していました。
注目していたマックス・ペンソン10という写真家は『プラウダ・ヴォストーカ』のカメラマンだったので、同紙やその他当時の新聞を網羅的に見て、掲載された写真をチェックしたこともありました。こうした作業は後にヴェールやかつての女性の装いについて検討するのに役に立ちました。何となく関心があってやっておいたことが後でつながるのはワクワクします。
志田さんもこれからフィールドに行かれるので、現地の人と話していて、フィールドで目からウロコ、みたいな新鮮な経験をすることがきっとあると思います。例えばあるとき、ウズベキスタンのある地域で調査をされている現地の先生に、伝統的な信仰とも強く結びついているスーフィズム11は、現在は当局から警戒の目で見られているけれども、実際のところどうなのかとおうかがいしました。すると「スーフィズムはもちろん今はだめなんですよ、でもね、ちょっとだけ、ちょっとだけなら大丈夫なんです」という何とも絶妙な答えが返ってきたのです。それがすごく新鮮で。この絶妙な感覚でスーフィズムは生き延びているし、それを理解すればこそ調査もできるのだと、目からウロコだったことが最近ありました。
{ Q4 }
フィールドで
志田: そういう面白い発見が私にもあったらいいなと思います。
現在はコロナでフィールドにも行けなくなっていますが、コロナ以前、帯谷先生は年に1回くらいはウズベキスタンに行かれていたのですよね。そのときはどれくらいの期間、滞在されていたのですか。
帯谷: 大学の職員になると授業の縛りがありますし、大学院の入試や子どもの学校の都合などもあるので、最近は8月の3週間がマックスですね。それから可能な時には年末年始に1週間か10日くらい出かける程度です。
年末年始の短い期間でも、あらかじめいろいろと頼んでおいて、資料を収集するとか、人と会ってインタビューをすることなどはできます。向こうの人も大晦日や元日を家族で過ごすので、おうちにいらっしゃるし、よいチャンスではありますね。
志田: インタビューもされるのですね。
帯谷: プロジェクトによってインタビューをすることもあります。ただ、私の場合はきちんとした人類学的な作法にのっとったインタビューというよりは、半分世間話をしながらライフヒストリーを聞いたり、そこに自分の関心を織り交ぜておしゃべりするという感じですけれども。
志田: 帯谷先生が、はじめおひとりでウズベキスタンに行かれたとき、女性ひとりで出歩くことについて現地の方の反応はいかがでしたか。
帯谷: 今振り返ってみると、当時は現地のジェンダー規範や家族規範をあまり理解していなかったですね。ですからフラフラ一人で出歩いていましたが、都市部ではさほど問題はありませんでした。でも、現地の人はどういう目で見ていたのかなと後になって考えたことはあります。ウズベキスタンでは概して結婚年齢が低く、親や親戚から結婚しなさい、しなさい、としつこく言われるお国柄です。私が長期滞在したのは30歳を過ぎた頃でしたが、初対面の世間話では、年齢、結婚しているかどうか、子供は何人いるかが、いの一番に聞かれることなのですね。自分の年齢と独身であることを伝えると先方はすごく驚いて、理由を根掘り葉掘り聞いてくるわけです。理由は特にないです、日本では普通です、と言ってはみるのですが、ウズベキスタンでは30歳ぐらいで女性が独身だったらよほど何か事情があると思われます。そういうところでよく困りました。あとは道を歩いているとよく面白半分に男性に声をかけられるとか、そういう研究と関係ない部分で、女性一人では少々厄介なことはありました。ある意味、現地出身のパートナーができてからはあちこち行きやすくなり、安心できるようになりましたね。
{ Q5 }
日々の研究と生活
志田: では、ふだん研究室、大学にいらっしゃるときにはどのように研究されていますか。
帯谷: 大学にいるときはやはりどうしても授業や会議、事務処理などが優先で、ほとんど「業務」で終わってしまいます。今はまだ子どもの生活リズムに合わせているので、あまり遅くまで残ることもできませんし。
志田: 研究のために調べたり読んだりするのは、研究室でというよりは、家で、あるいは隙間の時間にやっておられるのでしょうか。
帯谷: 私の場合は、必ずしもよいと思っているわけではないのですが、限りなくオンオフの境目がない感じです。特にコロナ以後は、研究室から必要な本を家に持ち帰り、ほとんど切れ目なく原稿を書いていました。今うちではキッチンにまで本が積み上がって大変な状況になっています。書く仕事は、やはり夜が落ち着くといいますか、興がのります。でも最近は年齢とともに11時ぐらいになるともうばったりと気を失うようなことが多くて(笑)、そこから3時ぐらいにはっと起きたりします。完璧な夜型ですね。
志田: 論文を出すタイミングや発表するタイミングなど、研究のリズム、スケジュール管理については何か意識されていますか。
帯谷: 計画を立ててもほとんどその通りにできたためしがないので、とてもお手本にはならないですねぇ。物を書くのに、自分が思っているよりもいつもとても時間がかかってしまいます。でも例えば科研費などをとって年限を定められて研究を進める場合、嫌でもそれに合わせて組み立てていくことにはなりますよね。あえて締め切りになるようなものを作っていくのが肝心かもしれません。
志田: ちょっと安心しました。では、1年の間に論文1本は出そうとか、そういう目標を立てられたりはしますか。
帯谷: 最近は私たちもそれによって評価されがちなので、計画せざるを得ないですね。
志田: プライベートで、1日にこれはやっておこうというようなことはいかがですか。
帯谷: 恥ずかしながら、心に決めていてもできなくて、後から落ち込むことが多いのですが……例えば、朝起きて、ここだけは掃除しようとか、ちょこっとできることを設定するというのはありますね。本当にオンオフの切り替えがない生活なので、もうほとんど、原稿を書きながら脇でほうれん草を茹でているとか、そういう毎日です(笑)。
志田: コロナになって私もよく自炊するようになりました。作るのが好きなのか、作っている間は休憩、という感じはします。
帯谷: それはとてもよくわかります。私も気分転換に台所仕事するのは好きですね。料理したり、お茶碗洗ったりするのはそんなに苦ではなくて。ウズベキスタンの友人で、食器洗いは物思いをする時間だと言う人がいて、あぁなるほどと思うんですね。だから食洗機は買わないでおこうと思っています。
志田: お風呂やトイレでひらめくことはありますか?
帯谷: お風呂でぱっと書きあぐねていた文章が浮かぶことはよくあります。
志田: 休日の過ごし方を教えていただけますか? 休日はお子さんのスケジュールで決まってくるのでしょうか。
帯谷: まだちょっと手が離れないので、習いごとの送り迎えなどに縛られています。何もない休日は、朝起きないからね、と宣言して、とにかく目覚ましをかけずに、自然に目が覚めるまで寝ます。あとは、まとめて家事をしますね。
コロナ禍ではまったのは、ピアニストYouTuberの動画を見ること。ストリートピアノを弾くイケメンを何人も発見したりして(笑)。最近はジャズピアノを聴いたりもします。ピアノの音色、癒されます。
志田: 私は楽器を習うならオカリナがいいです。
帯谷: 奥が深そうですね。私は歌を歌いたいです。
志田: 先生は昔運動が好きで、自分が研究者になるなんて思ってもみなかったという文章をどこかで見たのですけれども、どんなことをされていたのですか?
帯谷: テニスをやっていました。中学・高校と体育会系で、全然強くはなかったのですが、がっつりやりました。高校までは冬の間もずっと日焼けしていて、4月にクラス写真を撮ると顔が穴が開いたように真っ黒で(笑)。
{ Q6 }
研究のおもしろさ
志田: では次に、研究をしていて一番おもしろいと思う瞬間について、教えていただけますか。
帯谷: それぞれ点であったものが、資料を読んだり、背景を探っているうちにつながってくるのがやはり「おおっ」と思う瞬間ですね。最近では、ロシア帝国のムスリム女性解放論について、少しずつ読んでいたロシア語の資料が、共同研究などで近接領域の方たちと議論しながら背景を探っていくと、意外な広がりを持つものだったとわかってきたということがありました。ムスリム女性の解放についてロシア語で書かれた著作が、エジプトやオスマン・トルコ、英領インドで書かれたものと共振するようなところが見えてきて、それらの具体的なつながりを次々に辿っていくのは、まさにわくわくするような、研究の醍醐味でした12。
フィールドで目からウロコ、という感覚も大事にしたいです。イスラーム・ヴェールのテーマはまさに「フィールドで目からウロコ」から始まりました。最近特に思うのは、ウズベキスタンではますますイスラームを、公にも「善きもの」として見直そうという雰囲気が出てきているのではないかということです。ウズベキスタンは1991年までソ連に属していましたが、ソ連がなくなってしばらくの間、10年20年ぐらいはソ連的な政教分離・世俗主義の影響を都市のインテリや政治家たちが色濃く残していて、彼らの中には、宗教はアヘンである、非科学的で非近代的な、好ましくないものという感覚が強かったと思います。けれどもそれがだんだん変わってきて、特に最近は、ウズベキスタンのイスラーム的な遺産や伝統を対外的にもアピールしつつ、国内では極力、外来のイスラーム的要素、特に過激主義の影響を排除するような形で、ナショナルなイスラームのあるべき姿を示そうという傾向が強まってきました。信仰心が篤いことが好ましいことだと受け止められる余地が出てきたのだと思います。そうすると、女性がイスラーム・ヴェールを着けるのも悪いこととはみなされなくなり、逆にそのような女性が美しいと思われるような感覚が生まれつつあるのかもしれないとも思うのですね。宗教を、イスラームを善きものとしてもう一度見直して、モダニティを見直すということが起こるのかなと、おぼろげながら考えています。
志田: そうなると、先ほどおっしゃっていた人々のスーフィズムの信仰についてはどのようになっていくでしょうか。
帯谷: そこが実はとても問題含みだと思います。スーフィズムは民衆のイスラームとも言われ、とても人気があって、伝統的な信仰の一部でもありますが、今ウズベキスタンでナショナルなイスラーム、つまり国家ががっちりと管理するイスラームの体系を作ろうとしている人たちは、スーフィズムに対してより否定的になりつつあるようです。ウズベキスタンでイスラームの権威を担う宗務局のハナフィー法学派13のウラマー14たちにはもともとそのような傾向があり、これまでにもスーフィズムとの関係には複雑な経緯があったことが知られています。
例えば、ナクシュバンディー廟15の敷地内に昔から有名な古木がありました。もう根っこが生きていない巨大な幹の一部が地面に横たわっていて、その木に触れたり、木と地面との間の隙間をくぐると、病気が治る、子宝が授かるなどのご利益があると信じられていて、多くの参詣者がそうしていました。つい最近のことですが、それは迷信だ、聖物崇拝はイスラームの教えに反するとされて、その古木は博物館に移されてしまいました。中央アジアの伝統的な信仰の一部でもあった聖者崇拝や聖物崇拝などは、もしかしたらだんだんこのような形で信仰実践の場から遠ざけられていくのかなとも思います。
志田: それこそが中央アジアのイスラームという感じがしますけれども。卒業研究のときに、聖者廟に泥を投げたら皮膚病が治るという事例を調べたりもしました。
帯谷: 民衆の中に根付いた信仰という意味では本当に重要なものだと思いますが、現在の政権と宗教的なオーソリティはそれを認めず、スーフィズムはどこか危険視されて、監視の対象になっているようです。
もう一つ面白いなと思っているのは、女性のイスラーム指導者が公共空間に登場するようになってきたことです。中央アジアでは伝統的には、女性はモスクに行かず、オティンと呼ばれる女性たちが家庭やコミュニティでイスラーム的知識を伝えているとされてきました。けれども最近では、モスクも女性用のスペースを作っているところが増えているようです。
ある有名な、今は亡きカリスマ的ウラマーの娘さんが、現在たいへん影響力のある存在になりつつあり、SNSや動画サイトを上手に使い、洗練された写真やイメージを取り入れて、読者や視聴者からの相談に答えたり、イスラームの教えや父親の残した言葉などを紹介したりしています16。これはとても新しいことで、それらのコンテンツを追いかけたら面白そうです。
志田: もう一つお聞きしたいのですが、先生は研究をやめようと思ったことはありますか?
帯谷: 私は比較的早く、27歳で運よく就職できたので、自立して生活していかねばということもありましたし、研究をやめようと思ったことはないですね。
志田: もう面白くないな、といったことはなかったでしょうか。
帯谷: うーん、面白くなくなったことはないですねぇ。でも、毎回毎回、原稿を書くのは本当にしんどいなぁと思いますけれど。これはいつまでたっても楽にはならないですね。
志田: では最後に、もし若い人が、例えば帯谷先生の息子さんが、将来、地域研究者になるとしたら、どんなアドバイスをしたいと思いますか?
帯谷: やはり現地の人ととにかく話してみるということだと思います。実は私自身はわりあい言葉のバリアを自分から感じてしまうタイプで、自分が正しく上手に話せないとつい遠慮してしまうところがあるんですね。でもそうではなくて、どんなにブロークンでも、話したいこと、聞きたいことをとりあえずぶつけてみるということのほうが大事なのです。とにかく話してみる、食をともにしながらだと、なおいいですよね。
志田: 話すというアクションこそが大事ということですね。
今日はたくさんのお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。
(2021年10月25日)
注
1. 「連載 研究者になる!(第67回 帯谷知可)」京都大学男女共同参画推進センターニュースレター「たちばな」https://www.cwr.kyoto-u.ac.jp/rensai/kenkyusya/pdf/kenkyusya067.pdf。
2. 『敦煌』『楼蘭』『天平の甍』などの一連の西域小説や『遺跡の旅・シルクロード』などの紀行も(いずれも新潮文庫)。
3. NHK特集『シルクロード 絲綢之路』(全12集、1980-81年放送)、『シルクロード第二部 ローマへの道』(全18回集、1983-84年放送https://www2.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=special002)。
4. アンドレイ・プラトーノフはソビエト初期の「反骨の作家」。短編『粘土砂漠』(原卓也訳『プラトーノフ作品集』岩波文庫、1992年所収)に描かれる「バスマチ運動」が帯谷先生の卒論のテーマとなりました。
5. NHKアニメーション紀行『マルコポーロの冒険』(1979-80年、https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040506_00000)。小椋佳はオープニング「いつの日か旅する者よ」、エンディング「大空から見れば」などの楽曲を提供、歌いました。
6. アルタイ諸語に属し、トルコ語およびこれと同系の諸言語の総称。中央アジアを中心に黒海沿岸から東シベリアにかけて広く分布している(デジタル大辞泉より)。
7. ソ連の中のイスラームの問題を扱った山内昌之先生の初期の著作に『現代のイスラム──宗教と権力』(朝日選書、1983年)があります。
8. 小松久男先生は、中央アジア現地の資料を使って中央アジアの近現代史研究に取り組んだ先駆者。主な著書に、『革命の中央アジア』(東京大学出版会、1996年)、『中央ユーラシア史』(編著、山川出版社、2001年)、『中央ユーラシアを知る事典』(共編著、平凡社、2005年)など。
9. 2020年5月現在の京都大学の大学院別の女性学生比率をみると、ASAFASは55.4%が女性となっています(https://www.cwr.kyoto-u.ac.jp/support/research/statistics/)。
10. マックス・ペンソン(Maks Penson, 1893-1959)はソ連時代初期にウズベキスタンの日刊新聞『プラウダ・ヴォストーカ』紙で活躍した写真家。帯谷知可「中央アジア地域研究希少資料デジタル化の試み」『地域研究』7(1): 185-195(http://www.jcas.jp/jcas_review/JCAS_Review_07_01/JCAS_Review_07_01_015.pdf)やニューヨーク近代美術館の「Object:Photo」データベースによる紹介(https://www.moma.org/interactives/objectphoto/artists/39052.html)なども参照。
11. イスラームにおいて内面を重視する思想・運動。タリーカ(教団)を形成し、アラビア語を読めない人たちにも修行機会を与え、民衆のイスラームともいわれる。一般的にはイスラーム神秘主義と翻訳されることが多い。『岩波イスラーム辞典』や東長靖『イスラームのとらえ方』(世界史リブレット15、山川出版社、1996年)など参照。
12. 帯谷知可「ロシア帝国からムスリム女性の解放を訴える──O. S. レベヂェヴァとA. アガエフのイスラーム的男女平等論」『史林』第104巻第1号(2021年1月)、113-154頁
13. スンナ派の四大法学派のひとつで、中央アジアで最も有力な学派。
14. ウラマーとはイスラーム知識人のこと。
15. ナクシュバンディー教団の祖、ナクシュバンドをまつる聖者廟。ブハラ近郊にあり、多くの人々が参詣に訪れる。
16. 例えばhttps://muslimaat.uz/、https://www.instagram.com/bintusodiq_official/、https://www.youtube.com/bintusodiqなど。
After the interview.
インタビューの後にもう一言
2022年1月28日に『ヴェールのなかのモダニティ──ポスト社会主義国ウズベキスタンの経験』(東京大学出版会)を上梓させていただきました。インタビューの中でも触れていますが、ウズベキスタンのイスラーム・ヴェールについて、それがなぜ「問題」となったのか、その歴史的背景と現代的文脈を明らかにすることを目指しました。同時にそれは、ウズベキスタンで20世紀中にイスラームを排除しながら構築されてきた社会主義的な価値観を見直し、モダニティの再構築について考える契機を与えている問題なのだと指摘しました。
とても素敵にデザインしていただいたこの本の表紙について、ちょっとお話しましょう。素材となっているのは、ウズベキスタンを代表する現代細密画作家のひとりN. ホルマトフ作の「パランジ放棄、フジュム」(1973年制作)と題する作品です。パランジとは、現在のウズベキスタンの領域でかつて女性が外出する際に着用した全身を覆う分厚いヴェールのことで、フジュム(攻撃)とはソヴィエト体制下1920年代の女性解放運動、特にその中で展開されたヴェール根絶キャンペーンを指します。この作品では、女性たちがパランジを脱いで火にくべ、その周囲では男性たちがお祭りにつきもののカルナイ(長尺のラッパ)やドイラ(大きなタンバリンのような太鼓)などを奏でて、このパフォーマンスを盛り立てています。
研究を続けてきた中で何度か、あ、これは何かに導かれたな、と思うような出会いが何度かありましたが、この作品との出会いもまさにそのようなものでした。元々、現地で撮影したヴェール着用女性の最新の写真を表紙に使うのはどうかという打診を受けたのですが、コロナ禍のため手持ちの中には相応の最新の写真はなく、またヴェールが統制されてきた経緯を考えると個人が特定できるような写真を表紙に使うのには少々ためらいがありました。どうしたものかと、コロナ禍以前の数年間に撮った写真をあれこれ見返していたところ、たまたま立ち寄った細密画美術館でメモ代わりに撮っておいたこの作品に目が留まったのです。実は撮ったことすら忘れていたのですが、あらためて見てみると、細密画としてとても味わい深く、そして何よりテーマがぴったり!これしかない!ということで、急いで現地で表紙用のクオリティで撮影し直してもらいました。表紙デザインが出来上がり、いよいよ無事刊行の日を迎えたわけですが、現地に書影が伝わると、なんと、今は故人となったこの細密画の作者のご家族からお祝いの言葉をいただきました。とてもうれしかったです。
さて、この作品は、ラッカー・ミニアチュール(ラッカー塗り細密画)と呼ばれる工芸品で、実はこのジャンル自体がウズベキスタンが経験してきた近代化の産物でもあるのです。中央アジアの細密画はイスラーム美術の流れをくみ、主に書物の挿絵として発達してきたものなので、伝統的な細密画は紙に描かれます。一方、ラッカー・ミニアチュールとは、ロシア正教会のイコン(聖像の板絵)に用いられるテンペラ技法を応用して作られるようになったロシアの伝統工芸品で、黒地の小箱のふたや側面にロシア民話のモチーフなど極彩色の美しい細密画をほどこし、表面にラッカーを塗ったものです。ウズベキスタンではソ連時代にこの両者が融合して、中央アジア風のラッカー・ミニアチュールが誕生していたのですね。それに加えて、この作品では、ソ連時代の女性解放の象徴であった「パランジの放棄」という、時代の息吹のような社会政治的な意味をもつメッセージを込めたモチーフが描かれているわけで、私が小躍りしたいような気持ちになったのもおわかりいただけるでしょう。
(帯谷知可)
1枚のスカーフから広がる研究ーウズベキスタンから世界のヴェール問題を考える
たんけん動画