著者からの紹介
この本は、インドネシアで1998年5月まで30年以上にわたり独裁的な支配を続けた第2代大統領スハルトがとった、独特の統治スタイルに焦点を当てたものです。陸軍出身のスハルトの統治には、整然とした制度的支配と、周期的に爆発する国家の暴力(しかも民衆の暴力を敢えて扇動する手法を伴う)という二つの異質な側面が見られ、これらがなぜ、どのように並存していたのかという謎を解くことが、本書の目標でした。
着目したのは、インドネシアの独立戦争において、インドネシア国軍が民衆の暴力をも動員してゲリラ戦を戦った事実です。民衆の積極的支持を得るためには、自分たちの敵は誰であり、何のために戦うのかという意味づけが必要で、それを与えるのがイデオロギーでした。ゲリラ戦を経た国軍は、民衆の暴力という武器が有益な道具にも脅威にもなりうること、この武器を動員する上でイデオロギーが鍵となることを強く認識していました。
このような認識を持った国軍が中心となって生まれたスハルト体制は、政治を安定させるためにあらゆるイデオロギーを封じ、政党勢力が民衆を動員する武器を奪いました。同時に、政党から切り離された民衆の暴力を、必要に応じて国家権力が引き出して利用する統治スタイルを作り上げました。本書はこのような議論を立て、イデオロギー封じに利用された「パンチャシラ」と呼ばれる国家原則を分析するとともに、民衆の暴力性を利用した四つの事例を考察しています。
スハルト体制は四半世紀前に崩壊しましたが、スハルト体制の最末期を支えた元軍人プラボウォ・スビアントは2024年大統領選挙で圧勝しました。この事実は、民主化で何が変わったのかという問いを我々に投げかけているように感じます。(今村祥子)
目次
第一章 無法の暴力が支える調和
一 問題設定
二 既存研究における位置づけ
三 本書の構成
第二章 パンチャシラ──変動する体制、変わらない国家原則
一 はじめに
二 パンチャシラの誕生──独立準備調査会
三 国軍とパンチャシラ
四 パンチャシラの変遷
五 反政党とパンチャシラ
六 スハルトのパンチャシラ
七 スカルノとスハルト──その違いと連続性
第三章 九・三〇事件
一 はじめに
二 スハルト体制が描く「大衆の自発的行動」
三 地方における虐殺
四 一体化する国家と民衆の暴力
第四章 タンジュンプリオク事件
一 はじめに
二 事件の経緯
三 スハルトのパンチャシラとイスラーム知識人
四 タンジュンプリオクにおけるイスラーム・シンボル
五 情報統制
六 対イスラーム作戦としてのタンジュンプリオク事件
七 統治手段としての「暴徒」
第五章 「謎の銃殺」事件
一 はじめに
二 ペトルス事件の経過
三 ペトルスに対する反応
四 ペトルスに見るスハルト体制の国家と社会
第六章 一九九八年五月暴動──体制崩壊と残された分断
一 はじめに
二 背景──激化する抗議運動
三 暴動の発生
四 陸軍における権力闘争
五 暴動と体制崩壊
終章 統治理念と暴力
一 調和を支える暴力
二 一九九八年五月暴動被害者のその後
三 スハルト体制の遺産