学際研究と国際ネットワーキングの推進東南アジア研究所での10年半 | 京都大学 東南アジア地域研究研究所

学際研究と国際ネットワーキングの推進
東南アジア研究所での10年半

東南アジア研究所の教授公募で運良く採用され九州大学から着任したのは2006年の秋でした。毎日、河原町のバス停から荒神橋を渡って通勤する時、橋の半ばで立ち止まり、しばし北側を眺め入りました。鴨川の清流、下鴨神社の森、向こうに遠く北山の山並みと比叡山、その上に青空。川の流れは早く澄み、空気は透きとおり、静かで落ちついて美しい街だなぁ、と毎回、感激していました。毎日晴天が続き、10月1日の初出勤の日の感激が薄れることはありませんでした。

やがて11月に入り紅葉のシーズンになると、研究所中庭の紅葉の巨木2本と枝ぶりの良い4本が、日ごとに濃い紅色となってゆきました。中庭に面した東棟2階の会議室で11月下旬の教授会が開かれたとき、その紅葉の葉に当った照り返しの光のきらめきと、葉を透かし通った柔らかな光とが織りなすさまざまな紅のグラデーション、そして風に揺らぐたびに戯れ踊る光と紅葉の一瞬一瞬の表情の美しさに会議をほとんど聞かずに見とれていました。

京都には古寺名刹が数え切れないほどあり、長い歴史の厚みを街のそこかしこで感じます。けれども、それは京都に来る前から想像し、期待していたこと。実際に来てみて初めて気がつき、びっくり感動したことは自然の豊かさ、緑が豊富で身近にあることでした。夏の蒸し暑さと冬の底冷えは耐え難く、だから夏が過ぎること、冬が終わることが待ち遠しい。季節の移り変わりに人は敏感になるんだな、と納得しました。京都の美意識は、そうした盆地気候の厳しさと関係あるに違いありません。

京都で暮らしていると、その歴史と文化に対して自ずと深い理解と敬意を抱くようになります。が、それ以上に自然の豊かさと美しさとを実感します。私が気に入りお勧めしたいのは、伏見稲荷から上がり比叡山〜大原〜高雄を回って嵐山まで、京都一周トレイルを歩くことです。四季折々の魅力があります。

もうひとつ、京都に来て予想外のうれしい驚きは、研究所がとても開放的でフリーライダーがほとんどいないこと、アホな派閥ポリティクスのようなものがないことでした。それはおそらく、研究所の常勤スタッフ22人の専門が多様であること、各自がそれぞれの分野の専門家として第一線の研究をしていること。だから逆に、専門のまったく異なる同僚の仕事に敬意を払い、その研究を面白がり、一緒にプロジェクトをしてみようという気になる。そのうち本気でのめり込んでゆき、気がついたら学際研究への楽しいお誘いや挑発に乗ってしまっている。そうしたことが自由で開放的で、少々アナーキーな雰囲気を作り出していると思います。

私自身が幾つもの文理にまたがるような共同研究で刺激と示唆と啓発を受け、自分の研究の狭さを常に意識させられました。「ヤシガラ椀の外へ」出てゆくことを誘われ(マレー世界の諺、井のなかの蛙を脱する)、一緒に広い世界を見ることの愉しみと興奮を教えてもらいました。

研究所のスタッフの専門は文理にまたがり、人文系、社会系、自然科学系がほぼ1/3ずつの割合です。スタッフのもつ博士号が、法学、経済学、文学、工学、農学、理学、医学なので、ほとんどの分野をカバーしています。東南アジア=アセアン10カ国は、スタッフの誰かがその言葉を流暢に話せて通訳を使わずに調査ができます。多様性の共存と協力ゲームの推進が、東南アジア=アセアンの特徴であり、また研究所の特徴と強みになっています。

そして文理の学際的な共同研究ができるというのは、研究所にかぎらず京都大学が誇るべき特色であるように思えます。京都大学の知的魅力を紹介した『京都大学by AERA―知の大山脈、京大』(2012)は、キーワードに「大山脈」を用い、京都大学を「探検大学」とも呼んでいます。山岳部や探検部、そのOBたちが成し遂げてきたことが、そのままフィールドワークを基盤とする研究所の底力として受け継がれてきました。研究所のスタッフにも歴代、そして現在も探検部や山岳部のOBがいてパワフルな調査研究を推進しています。

具体的な学際・共同研究としては、2007 年にグローバルCOEプログラム「生存基盤持続型の発展を目指す地域研究拠点」を開始し、その終了後もさまざまな後継・関連プロジェクトが生まれています。現代世界が直面する問題を総合的に研究するためには学際アプローチが不可避であることを、欧米の研究者も承知しています。けれどもアカデミズムにおける専門化・細分化が極端に推し進められたために、欧米では、分野の異なる専門家のあいだの共同研究をするのはきわめて困難、ほとんど不可能と思われています。東南研で学際研究を本気になって進めていることを知ると、彼らはただただ驚き、信じられないと言い、その秘密を知りたがります。

正直に言って、学際研究の方法について私たちも確固とした学理を持っているわけではありません。しかし経験から言えることは、特定のテーマに関して、その問題の具体的な現れを個別の現場・地域で一緒にフィールドワークをすること。毎晩、夕食の席で、その後の歓談雑談で(たいがいがお酒を飲みながらですが)、自身が得た情報やデータを互いに説明し、共有し、勝手な解釈や思いつきを言い合うことです。言ってみれば、現実が大きくて複雑ですから、誰もその全貌を正しくは捉えられません。そのことを謙虚に自覚して、各自が自分の目で見た細部、集めたデータは正しいことに自信を持ち、だから同じように正しいデータと情報を得てきた同僚の説明に真摯に耳を傾ける。そして、互いに総合的な理解への協力ゲームを楽しむ。

喩えて言えば、自分たちが「群盲の象を撫で」ていることを自覚することです。象の鼻を、耳を、牙を、頭を、足を、胴を、尾をそれぞれ撫でる者は、自分の触れた世界の確かさを正確に伝える。同時に、仲間が触れた別の部分の確かさも尊重する。そしてジグゾー・パズルのピースを合わせていくように協力して全体画を描いてゆく。必要なのはまず地道なフィールドワークによって現場、現実の正確な理解をすること。それを世界の小さな一部と心得て、謙虚に協力ゲームを楽しむことです。そこには文理の専門家がそれぞれの得意技を披露し合う、知的異種間格闘技の醍醐味があります。格闘技というと喧嘩みたいなので、異業種交流会・懇話会、あるいは知的合コンといったほうが良いかもしれません。なにしろ楽しいのが第一ですから。

JRの宣伝ポスターは、「日本に、京都があって、よかった」と言います。同じように、私は、「京大が、京都にあって、よかった」と、今、あらためて実感しています。京都は、歴史・文化・自然の豊かさにあふれた街です。東南アジア研究所は、おそらく世界の東南アジア研究者がいちばん訪問したい、できたら長期に滞在して調査研究をしたいところでしょう。それは、京都の街の魅力と、研究所が文理にまたがる学際研究を本気で推進してきたことの魅力(外国人研究者には100%理解できないにしても、その可能性と必要性、面白さはよく分かる)が合わさった吸引力によります。柔道でいう合わせ技1本を取って優勝する力が京大には、少なくとも東南アジア研究所にはあります。そこで私が10年過ごせたことは、ほんとに幸せでした。ありがとう。

清水 展


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