Arief W. Djati | 京都大学 東南アジア地域研究研究所

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アリフ・W・ジャティ

The AREK Foundation


植民地支配下のコスモポリタンを探る:クウェ・ティアム・チンの伝記


ご研究について教えてください。

まず、私は学者や研究者ではありません。非政府組織の活動家で、私のことを知識人と呼ぶ人もいます。学術研究のように厳密な方法で研究を行っているわけではありません。現在は、オランダ領東インド時代の華人(中華系インドネシア人)作家であるクウェ・ティアム・チン(郭添清、1900-1974)の伝記を執筆中です。クウェは「棘の付いた鞭(Tjamboek Berdoeri)」というペンネームをしばしば使用していました。これは昔、悪人を処罰する際に用いられた凶器を(華人の)読者に思い起こさせるために使用されたペンネームです。私の知る限り、クウェは植民地政府の検閲を避けるために、ジャーナリスト兼コラムニストとして活動する間、十数にも及ぶペンネームを使用していたようです[1]

研究テーマはいくつありますか?

労働者、インドネシア共産党(Partai Komunis Indonesia: PKI)の生き残り、政治犯、そして華人を研究対象にしています。これらの人々は、インドネシアの「新秩序」時代から現在に至るまで抑圧の対象となっており、サバルタン(被支配者層)と呼ばれる人々です。また、労働者およびプラナカンは、階級とアイデンティティという共通する視点からその姿を捉えることができます。インドネシアにおける華人の多くは起業家であり、植民地時代にそうであったように、特に富裕層は「エコノミックアニマル」と称されることもあります。そして、あまり裕福でない人々は、日常的に様々な困難を強いられています。

研究テーマを面白いと思ったのはなぜですか?

「棘の付いた鞭」に興味を持ったきっかけはいくつかあります。まず、この研究は、新聞と図書館所蔵のアーカイブだけを頼りに進めなければなりません(可能であればインタビューも行います)。アーカイブは一般的な図書館の資料とは少し異なるため、それらを体系的に読み解く作業は、私にとっては新たな挑戦です。二つ目は、「棘の付いた鞭」が読者を混乱させるような戦略をいくつも用いている点です。例えば、ペンネームですが、独身時代に「「棘の付いた鞭」夫人(Hudjin Tjamboek Berdoeri)」[2]というペンネームを用いて、記事を何本か執筆しているのです。数年前、「「棘の付いた鞭」夫人」の研究に興味を持ったアメリカ出身の博士課程の学生が、「夫人」についての研究計画を提出しました。私は、「「棘の付いた鞭」夫人」の作品は、クウェ・ティアム・チンの夫人ではなく、クウェ自身が書いたものだと説明し、その学生の主張が根拠薄弱であると指摘したため、その学生は研究計画の提出をあきらめました。そして3つ目は、マランやスマラン在住のクウェの友人や近隣の人々にインタビューができることです。みな90歳前後の方たちなのですが、そのような高齢者に根気よく話を聞くことは、私にとっては最高の訓練であり素晴らしい機会だと思っています。

研究の道に進むきっかけや、今のご研究に至った経緯について教えてください。

「棘の付いた鞭」の著作

実はクウェの研究は、もともと故ベネディクト・アンダーソンの研究テーマでした。クウェの伝記を書きたいという打診があり、私は「棘の付いた鞭」の著作2冊を編集し、それをインドネシア語で出版するお手伝いをしました[3]。アンダーソンが突然この世を去った後、私は彼の遺志を継いで研究を続けなければならないと思いました。しかも、すでに相当数の資料が揃っていました。そこで私は、断続的にではありますが、この作家の人生の遍歴について理解を深めようとしました。そして、深く掘り下げるほど、彼の生き様や交友関係には非常に興味深い部分が多く、その経歴を読み解くことで、過去を理解するだけでなく、これからを見通す視座としても有意義であることが分かりました。

クウェの結婚式の写真(ご家族所蔵より)
東ジャワ州ジェンベルで発刊されたクウェ・ティアム・チンの新聞

研究の成果を論文や本にまとめるまでの苦労や工夫をお聞かせください。

資料が多すぎて、すべてを盛り込みたいと思ってしまうので、まとめるのにいつも苦労します。細部まで完璧で完全なものにしたいのです。すべてをまとめるには、それなりの時間と心構えが必要で、焦りは禁物です。それを踏まえたうえで、私はまず一度か二度、原稿を書き、読み直し、校正し、完成度を高めていくのです。

研究で出会った印象的なひと、もの、場所について、エピソードを教えてください。

私の研究人生の中で、影響を受け、知見を広めるきっかけを与えてくださった方を何人かご紹介します。一人目はもちろん故ベネディクト・アンダーソンです。このテーマについて何本も記事を書く機会を与え、著作を体系的に纏める一助となり、私を導いてくれました。二人目は、ジェームス・シーゲルです。物事を常に批判的にとらえ、恐れずに結論を導き出すことの大切さを教えてくれました。残念ながら、私の実力と見識では、氏の意図する世界観を十分に理解することが叶わないのですが…。三人目は、故サルトノ(仮名)です。1965年に起こった悲劇では、スハルト政権の新秩序体制によりインドネシアの共産党員やその支持者が100万人近く殺害され、また、100万人以上が拘束されましたが、その時の生存者です[4]。サルトノ氏は、PKIに入党したことも関係したこともなかったにもかかわらず、捕えられ、ブル島に約10年間拘留された後、人生をゼロからやり直さなければならなくなったのです。氏の学びへの意欲、勇気、不屈の精神には驚かされ、感銘を受けました。氏へのインタビュー記事は、2003年に刊行された書籍『煙のカーテンを貫く──1965年の政治犯の証言(Menembus Tirai Asap: Kesaksian Tahanan Politik 1965)』の第1章に掲載され、好評を博しました[5]

影響を受けた本や人物について教えてください。

内容に触発され、日々の課題に向き合うきっかけとなった本を2冊ご紹介します。一冊目は、ブラジルの教育者であるパウロ・フレイレ(1921-1997)の『被抑圧者の教育学(The Pedagogy of the Oppressed)』(1980)です[6] 。1984年にインドネシア語に翻訳され、私がこの本を読んだのは1988年頃でした。インドネシア語訳はひどかったのですが、幸い英語版を持っている友人がいたので、それを読むことができました。この本は、弱者や被支配者が自ら声を上げ、日常の困難を克服する手助けができるよう、私に指針を与えてくれたように思います。2冊目は、スカルノやハッタ以前のインドネシア独立運動の主導者の一人、タン・マラカ(1897-1949)[7] が著した『マディログ(Madilog)』(1943年)です。マディログとは「唯物論、弁証法、論理学(Materialism, dialectic, logic)」の意味で、この書名には、迷信を信じず批判の目を持つよう読者に促す意図が込められています。驚くべきことに、この本は日本がインドネシアを占領していた時期に秘密裏に執筆されました。タン・マラカは、文献を手に入れることができなかったので、自らの記憶とメモだけを頼りにこの本を書き上げたのです。インドネシアの新秩序政府によって本書が発禁処分となった1980年代に、私はこの書物を手に取ることができました。

理想の研究者像とは?

私の考える研究者像は、フィールドで得た事柄を単に書き留めて報告するばかりでなく、できる限り人々の役に立ち、現状を改善する役割を担うことができる者だと思います。そのためには、研究者は自分が知り得たことを正直に、また率直に書き記す必要があるでしょう。そして、一人の人間として、自分ができる範囲で人の力になろうとする。この理想は、学者や研究者が一般的に抱くイメージとは少しばかり違うかもしれません。

調査や執筆のおとも、マストギア、なくてはならないものについて教えてください。

道具はあくまで道具であり、なくてはならないものではないと思うんです。なくてはならないものというなら、忍耐力、粘り強さ、そして努力でしょうか。研究者には時に、インタビュー相手の話が理解し難くても、あるいは本題とは無関係の話題であっても、忍耐強く聞こうとする姿勢が必要です。そして、フィールド調査中は粘り強さと努力が必要です。これらが備わって初めて、マストギアについて語ることができるでしょう。執筆中は、EndNoteというアプリをたまに使う程度です。面倒に感じることもあるテープ起こしには、音声文字変換アプリを使うこともあります。しかし、特に英語以外の言語の場合、文字変換の精度が低く、再チェックと編集が必要です。また、携帯電話のメモアプリでアイデアを書き留めたり、紙を使うこともあります。雑誌や記事を読むときは、主に電子書籍リーダーを使っています。

 若い人におすすめの本があれば教えてください。

タイトルを挙げることはできませんが、あえて言うなら、どんな本でも良いので、それぞれの好みのものを読めばいいのではないかと思います。また、問題点や状況を分析する方法や感性を磨くには、常に文学作品を読むことも大切です。

研究者を目指す人へメッセージをお願いします。

研究を始める前に、まず自分が本当にその分野に情熱を持っているかを自問自答してみるべきでしょう。もし答えが「イエス」なら、心をこめて、全力で取り組んでください。たくさん読み、文章の書き方や人の考えを聞く練習をしてみてください。

今後の抱負をお聞かせください。

クウェの伝記に取り組むことで、私はより多くの本を読み、さらに知識を広げたいと思うようになりました。伝記が完成した後は、シンチットポ(新直報)新聞に関わりがあり、クウェと親しい人について書くことで研究を更に広げて発展させたいと思います。といいますのも、クウェの周りには、さまざまな民族的バックグラウンドや政治的志向を持った人たちがいたからです。もちろん、インドネシア華人党(Partai Tionghoa Indonesia: PTI)出身でありながら無党派のクウェ・ティアム・チン自身はそうですが、他にも、PTIおよびインドネシア人民運動(Gerakan Rakyat Indonesia: Gerindo)出身のリム・クン・ヒアン(Liem Koen Hian(林群賢), 1897-1951)、インドネシア・アラブ党(Partai Arab Indonesia: PAI)出身で国会議員(副大臣)のA. R. バスウェダン(A.R. Baswedan, 1908-1986)、PTI出身で後にゴルカル(Golongan Karya: Golkar)に転じたチョア・チー・リャン(Tjoa Tjie Liang(蔡志良))、通称アナン・サティヤワルダヤ(Anang Satyawardaya, 1913-2006)、アンボン同盟出身で国会議員であったD. J. シラナムアル(D. J. Syranamual, 1900-1956)です。異なる民族集団は市場でしか出会わないというファーニバルの複合社会に関する古典的な主張とは対照的に、シンチットポ紙に関わっていた人たちは、植民地時代の生活の様々な局面で、また、ナショナリズムとコスモポリタニズムというより広い意味合いにおいて、ともに活動していたのです。

(2022年7月)


[1] クウェのペンネームの多用は、クウェと同時代のポルトガルの偉大な作家、フェルナンド・ペソア(1888-1935)を想起させます。Richard Zenith, Pessoa: A Biography(Liveright Pub Corp, 2021)を参照。

[2] 「「棘の付いた鞭」夫人(Hudjin Tjamboek Berdoeri)」の「hudjin」は福建語由来の語で、インドネシア語の「ニョニャ(nyonya)」、英語の「Mrs.」に相当します。クウェ・ティアム・チンは1928年ごろにニー・ヒアン・ニオ(Nie Hiang Nio)と結婚する前に何度もこのペンネームを使っていたようです。

[3] Tjamboek Berdoeri, Indonesia dalem Api dan Bara(『炎と灰燼の中のインドネシア』)(Jakarta: Elkasa, 2004, 2nd ed.) とKwee Thiam Tjing (Author), Arief W. Djati and Ben Anderson (Eds.), James Siegel (Pref.), Menjadi Tjamboek Berdoeri(『「棘の付いた鞭」の生涯』)(Jakarta: Komunitas Bambu, 2010) の2冊です。前者は、クウェ・ティアム・チンの生前に出版された唯一の本で、初版は1947年にマランで刊行されました。後者は、1970年代にジャカルタの新聞『インドネシア・ラヤ』で連載されたコラムを集めたものです。

[4] Robert Cribb (Ed.), The Indonesian Killings of 1965-1966: Studies from Java and Bali, Clayton, Victoria, Australia: Monash University Centre of Southeast Asian Studies, 1990を参照。

[5] H.D. Sasongko dan Melani Budianta (Eds.), minimise Tirai Asap: Kesaksian Tahanan Politik 1965, [Passing Through the Dark Shadows, testimonies of political prisoners 1965], Jakarta: Yayasan Lontar dan Yayasan Budaya Indonesia, 2003におけるサルトノ氏の証言を参照。

[6] インドネシア語訳は、Pendidikan Kaum Tertindas, Jakarta: LP3ES, 1984を参照(邦訳は、パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』(三砂ちづる訳、亜紀書房、2018年)があります — 編集注)。

[7] タン・マラカについては、Harry Poeze, Tan Malaka: Strijder voor Indonesie’s Vrijheid Levesloop van 1897 – 1945 [Tan Malaka, Struggle towards Indonesian Independence 1897-1945] (The Hague: Martinus Nijhoff, 1976)、およびタン・マラカ自身の著作『マディログ』(Madilog, Jakarta: Terbitan Wijaya, 1951.)を参照。


注は特に断りのない限り、アリフ氏によるものです)

翻訳記事を作成するにあたって、加藤剛氏(京都大学名誉教授)と柴山元氏(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科大学院生)の助力を得ました。お二方に記して感謝します。

アリフ・W・ジャティ
東南アジア地域研究研究所 招へい研究員
在籍期間 2022年6月-8月